※ネタバレを含みます。
あらすじ
2017年の台湾のドキュメンタリー映画。2014年に台湾で起きた「ひまわり学生運動」の前後を、学生リーダーの1人である陳 為廷(チェン・ウェイティン)と、中国大陸出身の留学生である蔡 博芸(ツァイ・ボーイー)の2人に焦点をあて、当時の社会運動の盛衰を記録した作品。
陳 為廷の社会運動の場に蔡 博芸が顔を出す形で、2人は時折顔を合わせているものの、常に行動を共にしているわけではなく、それぞれの活動を通して社会運動とは何か、民主主義とは何か、アイデンティティとは何かについて示唆を与えるような構成になっています。
ひまわり学生運動の前年に香港を訪れ、当時「学民思潮」のメンバーで、日本でも有名になった周庭(アグネス・チョウ)たちとの交流もカメラに収められているのが特徴的です。
また、この映画の公開とともに出版された、傅楡(フー・ユー)監督の著書「わたしの青春、台湾」も読みましたので、こちらの本にも触れて感想を述べてみたいと思います。

結論:やや難解だが、多くの含みを残す作品
あまり多くないと思いますが、私のような、台湾の政治状況や世界史もほとんど知らない人間にとっては、台湾における基本的な政治状況や、取り上げられる複数の社会運動の説明がなされるわけではないので、少々難解でした。
陳 為廷は学生運動のリーダーとして時代の寵児となるもスキャンダルが発覚して信用は地に落ち、蔡 博芸は留学先の淡江大学の学生会長選挙に出馬するも、中国籍であること等を理由に妨害工作に遭い落選してしまうなど、途中で大きく挫折しそうになります。そして、「この作品をどうやって終わらせるべきか」という監督の悩みまで作品の中に取り入れ、陳 為廷、蔡 博芸、傅楡の3人はそれぞれ成長し、次なる1歩を踏み出すというエンディングになっています。
何かを成し遂げるまでの痛快な物語ではなく、むしろ「あの運動・活動には一体なんの意味があったんだ」と思わせるほど喪失感を伴う作品でした。
しかし、若者にとっての社会運動とは何か、民主主義とは何か、台湾人のアイデンティティとは何か、「青春」とは何か、について考えさせる作品で、これから台湾について勉強していきたい私にとってはとても意義深いものでした。
私が作品を通じて言いたいこと伝えたいことは以上で終わりです。以下、見出し同士の繋がりは薄いですが、書いてみたいトピックを列挙したいと思います。
台湾におけるアイデンティティと民意の複雑性
映画を見るうえで前提知識となるのは、
・台湾人のアイデンティティーは一様ではない
・台湾人は「台湾独立」を一様に志向しているわけではない
ということです。
よく見る図ですが、国立政治大学の選挙研究センターの資料によれば、自分を「中国人・台湾人・両方」のいずれを自認するかはバラつきがあり、かつ変化していることが分かります。
これは原住民、鄭氏政権下、清朝統治下、日本統治下、国民党統治下、現代、と時代が移り変わってきた中で、自身の歴史認識や、生まれた家の教育環境などによってどうやらアイデンティティーに差が出るようです。
書籍のなかで、フー・ユー監督は、華僑の両親のもとで生まれたため台湾語が話せず、幼少期に友達から仲間外れにされたと書いており、「本省人か外省人(非本省人)か」は大きな要素の1つとなるようです。

また、対中関係について独立を志向するかについても、すぐに独立したいという人は少なく、現状維持派の中でも温度差があるのが分かります。

アイデンティティーは大なり小なり相対的なものであると思いますが、特に台湾においては、土地への帰属意識や、中華民国への帰属意識、また中国共産党への忌避感情の度合いによって、個々人が感じるアイデンティティーに差が生じやすいのだろうか、と考えています。
ひまわり学生運動が抱えた矛盾 ~民主化~
映画の中でも割と直接的に描かれていましたが、2014年3月18日に立法院を占拠してから、馬政権からの反応が無く「次に何をすべきか」を考えるときや、議場占拠からの撤退条件を決めるときに、議場の外にいる人たちから「中で勝手に決めるな」「自分たちも話し合いに参加させろ」という主張がなされるようになりました。
学生の中心メンバーたちは、政府の黒箱(ブラックボックス)化を非難していたはずが、自分たちも同じ状況を作り、有効な手を打てずにいました。


作品の主たるテーマではないと思われるものの、「民主化」を求めるためのある種の「独裁」、という矛盾というものも、私にとっては驚いた一幕でした。
また、ひまわり学生運動の直後、陳 為廷は監督からのインタビューで「スターの気分はどう?」という質問に対し、冗談も交えながら、
「いい気分だよ。発言力を持ち、権力を握ること。
目的を達するには力が必要だ。」
と、素直に語っています。権力というのは、影響力の大きさという意味だと解釈しました。

ただ一方で、映画の終盤、陳 為廷と蔡 博芸の2人が表舞台から降りてしまったことと関連して、監督は「こんなはずではなかった。もっと別の可能性がありえた。結局、終えてみれば何も無くなってしまった。(途中省略)」と涙ながらに心情を吐露しました。

また、映画の冒頭では監督が「社会運動が世界を変えると私は信じ始めた」と語っており、監督の期待を陳 為廷と蔡 博芸の2人に投射していたことが分かりますし、書籍でも触れられていました。

しかし、蔡 博芸からは「監督の期待を個人に背負わされるのは、人質みたいなもの」と厳しく指摘されてしまいます。

私の読解力不足でしっかり理解できているか不安ですが、
このあと、フー・ユー監督は、議場の外で「誰かの指示を待っているだけの大衆」と自分を重ね、2人に期待を寄せいているだけの自分を恥じた、と締めくくっています。
「自分の期待を誰かに投射しているだけではダメだ。主体性を持ち、自ら行動を起こすべきだ」というのが、監督の伝えたいことの1つなのかなと理解しました。
結局、「本来は一人一人が主体性を持って考えて行動すべきだが、ある程度は誰かに権力を集めないと物事は前に進まない。しかしその過程においては透明性を確保し、様々な意見が採り入れられるよう常に努めるべきだ」という民主主義の基礎、要するに現在の政治体制の延長線上に答えがある、という当たり前の結論を再確認するために、ひまわり学生運動があったともいえると感じました。
結果、サービス貿易協定の議論は凍結され、学生たちは成果を出したと言えると思います。
「青春」とは何か?
書籍の最後は、以下の言葉で締めくくられています。
これは一つの「主体性」を追い求める旅だ。あるいは、青春の本当の意味はここにあるだろう。わたしたちはみな、青春や青春の傷を経験することで、やっとそれぞれの主体性と信念を持つ成熟した人間になるのだ。
また、映画の終盤、監督が途中まで出来た映像を2人に見せたあとの陳 為廷の感想が以下。
価値観は不変だというのは簡単だ。でも19歳から25歳ころの変化は大きい。理想への方法や手段が徐々に明確化してくる。なぜ特定の手段を選んだか、議論が必要な時期だ。議論を通じて初めて価値観がはっきりしてくる。それが大事だ。
一方、蔡 博芸の感想は以下。
為廷は議論が大事と言うけど、誰かと議論する必要ある?一人暮らしなら話し相手もいないのよ。
私は「青春とは何か?」を考えたことがありませんでしたが、
青春=主体性を追い求める旅
というのは非常に優れた解釈だと思いました。若者、とくにこの映画に登場する監督を含めた3名は、若さゆえに自分の信念は何か、自分の信念は正しいものかを確かめる術をもっていないことが多い。だから自分の情熱を誰かにぶつけ、その反応で推し量る。その営みが青春であるなら、やはりこの映画のテーマは「青春」という言葉がしっくり来ると思いました。
さいごに
今後もドキュメンタリーを見て、感想を書いていきたいと思います。
もっと書きたいこともあったので、次の機会に書くことができればと思います。






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